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木箱に入れる

 

 

木箱に器を入れる、

 

紙を用意し、

 

キリリと、紐を結ぶ。

 

これもぼくの仕事。

 

 

軍配団扇豆皿と芙蓉手双鹿文五寸皿

 

 

今日の一客  軍配団扇豆皿と芙蓉手双鹿文五寸皿

 

庭には芙蓉の花が咲いているのですが、

 

わたしには、芙蓉の花と、ムクゲの花の違いが分からない。

 

『これはわたしの国の花』

 

と言われたのは、たしか昨年おいでになった韓国のお客さん。

 

聞きかじりですが、芙蓉という花は中国では蓮のことを指すらしい。

 

『美女の形容としても多用された』とも。

 

 

一方の軍配団扇

 

うちわの形状から『棕櫚の葉』をモチーフにしたもので、

 

柴田コレクションにその形状の白磁が見られます。

 

高台は付け高台、ハート形に仕上がっております。

 

 

なお、『軍配』とは『軍配団扇』を略したものらしく、

 

大相撲のTVを観ていると、解説者は『さて、行司○○が軍配団扇を、、』などとやっているのを聞くことができます。

 

この仕事をしていなければ、知ることもなかったかも。。。

 

雑学です(^^;

染付菊文飯碗

 

 

 

さて、

 

生きているといろんなことがあるよね、、

 

嬉しい事も、哀しい事も・・・

 

明日はフランス人が来るらしい。

 

それなりに、国際交流に貢献しているつもり。。

 

写真は貰えるかしらね、貰えると嬉しい♪

 

もちろん、このブログに貼れるもんね。

 

 

今日の一客 染付菊文飯碗 

 

寸法は 口径 11cm 高さ 4,8cm

 

下は裏のイメージ

 

 

 

 

中谷匡児さんへ

たまにはボランティアもします。

 

 

この髭の男子は Jose Luis さん、

 

確か、イタリアの旅行業者で、(後にE-mailのドメインからスペインの方と分かりました、訂正します)

 

先日、頼んであった写真がEメールで届いた。

 

正直、外国のお客さんが来ても、仕事のリズムが崩れ、モノづくりにとっては複雑な心境。

 

『九谷焼』の説明や、その歴史等々、

 

おいらのやってるのは、主に明代の焼き物をリスペクトしたもの、

 

今回は石川県の国際観光課とかの紹介だったので、たまにはね、県やお国のためにご奉仕するのも。。。

 

そんなこともあり、最近では『九谷』風の作品もつくるようになった。

 

 

今日の一曲

 

里山の風景

 

この時期になると、我が家では秋明菊が咲く。

 

薪の陰に隠れて、日当たりは悪いけれど、よく咲いてくれた。

 

『秋牡丹』とも言われているようだが、

 

昨年植えてあったほんとうの『牡丹』のほうは隣に棲みついていたカモシカに喰われ、無残な姿に、、

 

そのカモシカも今は何処かへ、

 

里山の風景です。

遅窯堂亭主

 

 

日本の小説家、劇作家、放送作家である井上ひさし氏は別名『遅筆堂亭主』と称していた。

 

彼によると、劇作家は船にたとえると船長にあたり、『完璧』ではない状態での船出はとどのつまり『事故』となる。

 

船長には船出の責任があり、従って多少の『舞台の遅延』は許される。

 

というような意味のことをラジオか雑誌かで語っていたことがある。

 

 

良いモノをつくるって、そういう事か、、、と、

 

それ以来、ぼくは『遅窯堂亭主』を自認していたところ、

 

信用をなくし、注文が滞った。

 

 

ある年の12月、ぼくは暮れに納める器の注文を受けていたところ、

 

運悪く、娘からインフルエンザをうつされ、

 

布団に包まったまま、15日間すごした後、計画どおり年末に器を作り石川県から伊豆にある強羅の旅館まで車を走らせ納品を済ませた。

 

 

信頼は一気に解消したが、後にこの時ぼくは肺炎を発症していたことが分かり、

 

『自己快癒か、、、本来入院のケース』と医師に告げられ『知らぬが仏』、とはよく言ったもので、驚いたことがあった。

 

 

爾来、『遅窯堂亭主』を名乗ることはない。(多少、その名残はある、お許しの程)

 

 

今日の一客: 古染付写兎形向付

『嫌んなった』

 

 

猪瀬直樹氏は、『自身も参加したこの1969年の佐藤訪米阻止闘争でもって、60年代後半の学生運動は終わったと述べている。』

 

1969年11月16日の東京、蒲田の硝煙漂う駅周辺。

 

『う〜〜ん、よく分かるなぁ、、、』その後僕は旅に出ることになる。

 

その旅先の沖縄での人々とのかかわりの中で、ぼくは一生涯の仕事と出合った。

 

『焼き物を焼く』仕事。

 

一年に及ぶ旅は、その後、40年の陶芸の旅への序曲でもあったと思う。

 

1975年、ぼくは『焼き物を教える学校』に入学する。

 

けっして、明るい未来が開けていたわけではない。

 

 

奇しくもその当時、こんな曲が流れていた。

ナマズ向付

 

 

 

『中国の料理が 世界一を誇り得たのは明代』と言われていますが、

 

先日お越しになった中国料理店の料理人がチョイスされたのがこのナマズの向付。

 

その器も、明代の古染付けに倣って、つくったつもりですが、、

 

中国の陶磁器が世界一を誇りえたのものまた、明代。

 

日本では桃山ということでしょうか。

 

では、その当時の日本のお料理とは、さてどんなものだったのか。

 

握り鮨やすき焼きはなさそうですねぇ、、、

 

 

犬や猿の脳みそを喰ったって話も聞きますが、まるで映画『ハンニバル』の世界かも。

吸坂手掛分け満月文四寸皿

 

写真:吸坂手満月文皿 四寸

 

吸坂というのは加賀市大聖寺から山代、山中温泉へ抜ける一キロほどの旧街道です。

 

その吸坂と言う町の入り口にわたしは十五年ほど住み、窯を焚いていました。

 

わたしの住んでいた家のまえには『四界万霊等』と言う碑が建っており、お彼岸の頃、近在の坊主が経を唱える姿があったものです。

 

その碑の基には『経文が記された玉石が俵に詰められて埋められている』、と聞いております。

 

私情を抜きに続けますと、この場所は大聖寺藩の処刑場跡で、その石の数は処刑されたひとの数だと聞いたことがあります。

 

 

ところで、この『吸坂』と言う名称について、各方面から珍説、奇説が寄せられていますが、いちばんまともに記されているのが、この地の考古学者だったUさんの『金城紀要』かもしれません、が。

 

ある日のことです。娘がまだ幼かった頃、越前の海岸を車で走っている時、スイカ畑が広がっていました。

 

『あ、シイカ、シイカ』と娘がスイカ畑を指差しました。

 

この時、『吸坂』の『謎解き』が終わった瞬間でした。

 

その『「吸坂』には黄土や鬼板、鉄分のある陶土、水打粘土、来待石に似た瓦の釉薬になる粘土、江戸時代の窯跡などがあったのです。

 

写真の器は、『吸坂』と記しておりますが、残念ながら、それはひとつの概念であって、この地でつくられたかどうかは不明です。

 

わたしは一作陶家として優れた古典を Respect しているのであって、そのために『吸坂手』と称しております。

 

 

今でも、その場所は街道からは見えませんが非業の死を遂げた方々を祭った大きな碑が建っております。

 

歴史には『表の歴史と、裏の歴史がある』と言います。

 

 秋の夜長 、そんな思いで陶芸を見つめなおすのもまた、たのしいかもです、昨日は満月だったそうですが、、