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お多福

 

 

玄関に飾ってあった『耳なし芳一』からヒントをいただいた『面』を、

 

『お多福面』に、、

 

 

あ、そうでした、昨日は土用の丑とかで、ウナギにとっては『厄日』

 

わたしのところでは『ご縁』がなかったのですが、

 

とても、暑い一日でした。

 

プールサイドで、熱い陽射しを受けてウナギの気分でした。

 

写しの仕事

 

落ち着いたいい感じのもんやなぁ、、と思う。

 

金沢にある古美術屋さんの持ち物で、貸してはもらえなかったので写真撮影だけ。

 

当主にいわせると、『古九谷だ』そうで、まぁ、ぼくとは見解が違うが、物はよかった。

 

その一ヵ月後に、下写真の器をつくって見せたところ、何も言わずお買い上げ。

 

写しの仕事の面白さは、ぼくには『未知との遭遇』に似ている。

 

銘のところに『大日本平成年製』とでもすればよかったかなぁ。

 

 

色絵八角向付 w9,8〜10,2cm H6cm

 

 

 

陽刻菊形豆皿

 

 

最近のSNSにログインしてみる、『これを食べた、あれは旨かった』という自撮の写真と、お料理が盛られている図が席巻している。

 

 

この歳になると、歯は虫歯で冒され、旨いものともご縁がなくなって、他人様のこのような写真を見てると、うらやましくもあり、諦めに近い気分をも味わう。せめて、同じ味わうにしても旨いものを味わいたいものだなぁ、と嘆いてももう遅い(涙)

 

 

そんなSNSに載っているお料理が八寸という折敷のなかに様々な器に盛られ彩られて、いまどきといえばいまどきのトレンドにおさまっている。

 

今日の写真: 陽刻菊形豆皿(タイトルは陽刻となっておりますが、陰刻・陽刻組み合わさったものです)

 

 

ところで、SNSのことで、その問題点なるものが載っておりました。引用します。↓

 

『SNS上で、他人と自分を比較して鬱状態になるユーザーが多い傾向にある。例にすると、Facebook上では多くの人が生活の中の良い出来事のみを投稿してしまうので、ユーザーは相手のハイライト・シーンと自身を比較してしまい、相手の生活が良いものに見え、そのギャップで精神的な悪影響を及ぼす恐れがある』とのこと。

 

道理で、オイラも欝になりそうだったのは、その為かもね。

 

さて、きょうは、これから新しい歯科にいってきます、はい、どうなるやら。。。

同呈の論理

 

この加賀市で住みはじめた頃、ある大工と知り合いになった。

その頃は、焼き物で喰っていけない不思議な人生を送っていて、あらゆることは『ケセラッセラ』だった。

ある日、税務署が『差し押さえ』にやって来て、『この家は誰のもの』か、と問う。

 

『借家であること』『一年ほど家賃を滞納していること』などが分かると、その二人の行政官は顔を見合わせながら、

『こりゃ、執行停止やなぁ・・』と、。

 

もう35年ほど前のことですが、、

 

そんな生活を10年ほど続けていると、だれかれと無く助けてくれる人が現れ『人生もすてたものじゃないな』と思えるようになった。その中の一人がその大工。

 

『湯沸かし器って、手にはいらない?』

かれには風呂100万のものを30まで負けさせて業者に作らせたり、雨漏りする屋根を直してもらったり、、、こんどはその風呂釜が壊れたので、声をかけてあったところ、早速出物が届いた。

 

かれによると、もう灯油の湯沸かし器は手にはいらないらしく、ガスの湯沸かし器になった。『それで、なぁ、、、ガスを取ってもらえるなら、30万の風呂釜はタダになるけど、、』てな話もあったが、これも世話になっているガス屋さんがいるので、ぼくのような生き方をしているものには、『日和見主義』と『八方美人』『風見鶏』的な生き方はご法度だ。

 

考えてみると、こんな生き方が出来るのも、『都会』じゃないからで、『田舎』というのは熱い人間関係で成り立っていることが分かる。

 

さぁ、その湯沸かし器を抱えてぼくの仕事場に入って来たかれは、作業台の上にある型をみるや、『貝で焼き物つくるんけ』

 

きょうも、長いブログになったけれど、、、

 

これを『同呈の論理』に叶っている、とぼくはその瞬間、信じた。

 

 

写真: 軍配うちわの石膏型 

型物の高台

 

焼き物で『高台』と言う部分はどんな理由でつくられたのだろうか。。。

 

『あれは、釉薬を掛けるとき、指で持つためにつくられたもの』と、ぼくが若い頃、ある美大の教授に教わった。

 

ただ不思議なのは、平安期に瀬戸をはじめその近郊の猿投や常滑の陶業地で見つかる山茶碗(行基焼ともいう)は施釉されているわけではないが、明確に高台と分かる『付け高台』がある。

 

だから、きっと、別の理由があって、ある時『高台』が定着したのかもしれない。

 

その定着した歴史が長すぎて、今ではそれが当たり前のようになって、どんな理由か分からなくなった。

 

 

写真は型でつくった『軍配団扇豆皿』(まめ皿)

 

一般的に、陶芸では高台は削り出しが多いが(轆轤の場合)、型物には付け高台やはじめから型に高台部分を掘り込んだものなどがあり、その仕上がりにそれぞれの趣きがあると思う。

 

つまり、粘土をプラスするかマイナスするか、というおもしろさがある。

 

この『軍配うちわ』も、型物としての付け高台があって、これをどのようにしてつくるか当初わからなかったが、ある時、『大聖寺伊万里』を焼いていた窯元さんに出入りするうちに、その技法を伝授していただくようになった。『眼から鱗』って、このことかもしれない。(独自に考え出すことは殆ど無理だと思う。昔の人は、独創力というか知恵があったんだろうなぁ・・)

 

下:付け高台の写真

 

 

軍配団扇豆皿をつくる。

 

 

なんでもそうだが、初めての仕事って手間が掛かる。

 

手がなれた頃、仕事が終わる。

 

まぁ、仕事ってそんなものさ。

 

あと、数日、。。。

 

今日の写真: これから仕上げを待つ生の器

 

 

軍配団扇豆皿

 

大相撲夏場所も折り返しを迎えた。

 

ビールを飲みながらテレビ観戦するのもなかなか、と思える歳になった。

 

 

『軍配団扇つくっていただけませんか』と、リクエストが来た。

あの相撲の土俵で行司が持っているやつだ。

寸法もズバリ指定されている。こういう仕事は正直ヤル気が上がる。

ただ、資料集めに時間は掛かがるが、それも楽しみのひとつ、とおもえばどうってこともない。なんたって、自己拡張する世界だ。

 

ぼくたちが、日ごろ『軍配』と呼んでいるのは『軍配団扇』を略したもので。

 

その軍配団扇、お料理屋さんから頼まれ原型をさがしていたところ、以前古美術屋から預かっていた器のトレースが出てきたのでそれで型をつくってみることになった。

 

40年も轆轤をやっていると、もうそれなりに轆轤に飽きがきていて、型をつくるということが、モノ創りの原点に還るようで新鮮。

 

ただその型も、せいぜい2日か3日程度で仕上がるものでないと、モチベーションも下がってくる。

 

写真は付け高台のも含めてやっと仕上がった石膏の原型とそれを起こしたもの。

 

 

色絵をした色絵九谷手軍配団扇豆皿

染付した藍九谷手軍配団扇豆皿

そして、白九谷軍配団扇豆皿

 

 

う〜〜ん、いろいろやれそうやなぁ♪

 

千秋楽までに間に合うかどうか。

 

モデルにした『軍配団扇』の写真

白九谷陽刻菊文五寸皿

 

『君は陶芸家になるにはいい身体してるなぁ』京都で修行中、そこの親方が言う。

 

ぼくが焼き物を始めたころ、バブルの盛りで『陶芸』に関する本も馬鹿売れした。

 

『うつわ』というのはその作り手の体型や心に沿ってできあがるもので、『ある種の障害があったほうが良いものが出来る』とある茶人が書いていた。

 

たしかに、この世界で生きているのは、ぼくを含めてろくな人間が見当たらないのもその辺りにあるのかもしれないなぁ、、

 

ちょっと、さびしいけど、、、

 

 

いえ、他人様は別にして、オイラのことだ。

 

写真:白九谷陽刻菊文五寸皿

 

 

 

富士形向付

 

最近のニュースによると、

 

外国の方々の姿もチラホラとみられるようになった日本の旅館。

 

そんな旅館からのご注文、『富士形向付』

 

原型になったのは古伊万里の小さな器。

 

さて、この器『付け高台』という技法で高台をつけている。

 

型でできる器は外型でつくるか、内型を使うかで、その趣きが変ってくるが、

 

作り手の思いや、その器の形状によって手法も様々。

 

営業店先の器をつくる要衝は、まず『納期』

 

きょう、やっと、無事窯出しできました。

 

まだまだ、のんびりと泳げません。

けんたろうの皿

 

きょうのお天気はどうかなぁ〜

 

天気予報によると、この加賀市は午後から雨の予定だとか。

 

昨日はお昼に時間があったのでプールで泳ぐことにした。

 

誰も居ないプールで、真綿のような雲を見ながら泳ぐ。

 

その昨日の雲の形はあのローマの休日で有名になったBocca della Verità (真実の口)。

 

その口に手を入れると、『偽りの心がある者は、手を抜く時にその手首を切り落とされ、手を噛み切られ、或いは手が抜けなくなるという伝説がある』と。

 

リカバリーの際、その『真実の口』に向かっておもいっきり手を伸ばしてみる。もちろん届くはずも無いけれど、同じローマには『地獄の口』ってのもあるそうだ

 

いろんな妄想の世界をトリップできるんだよね、泳ぐって。

 

きょうの写真:色絵花籠文五寸皿