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染付鳥文さら
 

ぼくは初期伊万里の器がすきで、以前からこんな感じで・・・と思ってました。きょう窯があがって、打ち込みの技法が初めて成功♪ 写真は蛍光灯の下で今一です。明日、撮り直し。でも今日はこれで一品。

写真、差し替えたけど、やっぱりダメ、ね・・・明日もう一度。(差し替えました♪)

口径15.8cm

さっき、と言うと・・大阪弁かな、先程と言うのが正解かも、
で、昔のお友だちにで電話すると、寝ていたらしく・・・だんだんと昔のひとになる。
この歳になると、もう夜も短く・・・十時をすぎるともう爆睡ってひともいるのに・・・

沖縄では、この時間では『シンデレラボーイ』だそうだから・・・可笑しい。

ぼくがこの時間起きているのは・・・ホームページの改編のためで
でも、3年間も動かしてないと、忘れるものは忘れ・・
記憶のそこにあるものが、ジワジワト・・・いえ、案外スパッと思い出すものです。

ものを作ることは楽しいことだけれど・・・ご隠居さんでないところが、『つらい』です。
さて、たまには・・・愚痴になりましたでしょうか。。

明日、窯出しです。
『古法』

『おまえ、この轆轤どこで習った』と男が仕事場に入ってきた。滝口加全、この加賀でも高名な作陶家だった。かれは陶器から磁器まで多彩な才能を発揮した。特に型物(細工物)と茶碗に見るべきものがあったと思う。今から二十数年前のことだ。

 

わたしはとくに轆轤が得意と言うわけではない。むしろ、いまも下手なくらいだと思っている。ただ、挽き方がチョッと違うだけだ。

 

独立して暫くしたある時、三重県津にある有名な陶房で働いた女性が隣に越してきた。彼女は時々わたしの轆轤場で器を作る。はじめて見る轆轤であった。問題にもならない轆轤だ、ともおもった。そうするうちに一年が過ぎた。

 

かなりの逡巡の後、わたしは今まで習った技法をすべて捨てることを決意する。彼女の作ったものには不思議な力が宿していた。その後わたしは、土との終わりのない習熟が続いた。3年ほどしたある日、『貴方は知らないかもしれないけれど』と、彼女は神妙に語った。『貴方の作ったものはあの津のTそっくりなのよ』と。そのTと言う男は自らの技法を『古法』と名乗っていた。そのTはあの川喜多半泥子の直弟子である。加全はその技法の流れを知っていたことになる。

 

その後、私は二度このTに会っている。相手は私を知らない。作品の良し悪しは別にしてその品格が現れていた。ある意味で表現とは怖いものだとおもった。

女性は結婚し幸せに暮らしていると聞いている。今も分からないことがあると年に幾度か電話をする。電話の向こうにはあの頃の彼女がいる。わたしの師匠だ。

(敬称を略させていただきました) 

焼き〆花活け (20年ほど前のものです)
ようこそ♪ホームページへ
 

今日は窯焚きの合間にパソコンの前に座り、サイトの更新の合間に窯詰めをする。たいへん忙しい一日でした。そういえば昔、ホームページを作ろうとパソコンをいじっていた頃、夜の3時、4時なんてもう当たり前、ともかくアプリケーションが終わらないと席を離れられない。そんなときがありました。まぁ、それは若かったからと言えばその通りなのですが、もうこの歳になると、解説書は殆ど飛ばし読み。3年間というブランクを感じさせないくらい、覚えているものなんですね。どんなサイトができるやら、と考えている今日一日なのです。サイトでかかったものは、『もう、パソコンで稼ぎなさい』と細君に言われ・・・たしかにそれもそう、と感じたしだいです。それにしても、きょうはプロバイダーさんが私のパソコンに入ってきて、私はただいすに座っているだけ。パソコンのモニターはまるで透明人間が動かしているように縦横無尽に動き回るポインター、恐れ入りました。そんな時代になったのです。これからのパソコンやさんはもう自宅にいるだけで、ユーザーのパソコンにログインし、簡単に修理する。もうお家に来ていただく必要のない時代になったのかと思いました。でも、見られて困るものもすっかれみれれる時代です。どんなにかぎをかけていても。

私のホームページです ♪  ← クリックして頂くとホームページに行きます。
ホームページ復活!!


2006年8月1日から休眠しておりましたホームページ復活しました。三年ぶりです。 

藤澤重夫の焼き物』    どうぞよろしく♪

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窯を焚く


 

毎月の窯代が3万数千円かかる。何とかこれが少なくなる方法がないかな、と思っていたら、寺井のKさんから情報が入った。所謂、深夜料金で契約すれば、なんと約半額となった。条件はこうだ。夜10時から朝8時までの10時間がリリースされる。

 

昔、この土地に上野与一さんという考古学者がいた。かれは穴窯で焼き物を焼いていたが、ある時、朝から窯を焚き、夜になるとその窯の蓋を閉じ、翌朝再び窯を焚き始めた。その繰り返しをしながら、千数百度まで温度をあげた。つまり、人手を省き、自分ひとりで穴窯を焚いたのである。

 

『藤澤サンこれは文献に載っています』と、かれはよくぼくに説明してくれた。でも、と今も思う。どんな文献だったのだろう。

 

以前、ぼくは『雨月物語』という映画を観たことがある。うろ覚えだがそこに一人の陶工が出てきた。かれは窯を焚きながら・・。どうもおかしいなぁ、と思っていた。上野さんの焚き方に似ていた。この脚本家はどんな文献を見たんだろう。どうやらこの焚きかたでは、ぼくの窯は焚けそうにないことが分かる。人は制約があるから工夫する、せめて、10時間が12時間になるような『文献』があればなぁと天を見上げた。


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きり糸


わたしの仕事の殆どは轆轤をつかう。その仕事を水ひきという。轆轤で形が出来上がると、その轆轤台から器を切り離す際、糸をつかう。京都で修行していたころは、木綿糸を使った。細い糸だ。この石川県では同じ磁器でも水糸(タコ糸のように太い)をつかう。つまり、素材によって切り離す糸の太さが違う。(京都でタコ糸を使うと、器が飛んでいってしまう、九谷で細い糸を使うと、切り離せない)

先日、山茶碗(行基焼』についてちょっとふれてみたが、この茶碗のそこは切っ放し、つまり糸底だ。茶の世界ではこれ(糸底)を見どころの一つにした。その当時の糸底はミシン糸や木綿糸をつかったわけではない。もちろんタコ糸を使うこともなかったろう。

今から十数年前まで、わたしはそのための糸を藁しべで縒ったものだ。そこまで、こだわった。なぜ今それをしないか、糸底を見せるような仕事がなくなったから・・・もちろん、わたしの作ったものがこのような藁しべを使ったなど、おそらく誰も知らなかったことだ。今、はじめた話した。 (そういえば先日あるところで話たように思う、それを記事にしている)

写真は藁しべを半分に裂き、それを縒ったもの。タコ糸ほどのもの、もっと細いもの、それは藁しべの太さで加減できた。これは写真撮りのため、今日十数年ぶりにつくったもの。

では、それで作ったものは多少でもいいものが出来たのか・・・よく分からない、『おまじないのようなもの』 と云っておこう ♪


追記

この記事を書きながら思い出したのだが、細い糸は当時『棕櫚』でななく、薄っぺらい木の皮のようなものを編んだように思う、あれがなんだったか、ものは分かるのだが、名前が浮かんでこない。確か引き裂きながら適当に縒ったように思う。なんだったかなぁ〜

丈夫だったけれど、切れ味は藁しべのようではなかった。
豆皿
 

紅皿をヒントにして作った豆皿。元の紅皿は古伊万里の初期のころと聞きました。(下に写真を載せました)外殻は二枚貝のように鎬が入っております。ここでは載せませんが唐草のものもあります。いずれにせよ、当時の女性たちの想いが偲ばれます。

もちろん、向こうに見えるものは杯です。二枚貝のようになっているのが、この器の見どころのひとつでもあります。酒は呑めません。お雛様の飾りとして使われた、とおもいます。出所から想定してお話しました。この器もわたしのブログによく登場させていただきますが、明らかに初期伊万里、約1600年代のころですから、随分古いものです。

今もむかしも、女性の想いは変わらないものです。この紅皿、径5cm 可愛いものです。


ついでに・・・向こうに見える杯についてお話します。あの杯は作り手の目から観ますと実によくできております。轆轤はできるだけ削りをしないで済むように挽きあげられています。削りは高台のところだけです。ですから、鎬のカンナは最後まで轆轤の形状を阻害していません。

わたしは轆轤挽きですから、もう少し話しますが、削りをすればするほど、その生命力を失います。 (書でいえば、なぞるようなものです) むかし、30年ほど前 山茶碗(行基焼きともいう)の窯跡から傷のない器を掘りだしたことがありました。その器はまったく削りあとはなく、付け高台でした。なかなかいいものでした。

さて、ここで、脱線します。高台は施釉するために考え出したもの、というのがこの世界の通説です。山茶碗は灰被りです。つまり、施釉していない焼き物です。なぜ高台があったのか・・・おもしろいですね。いまだ、その不思議、解けません。これがまた、いい高台なんですね。





紅の花は山形県で産するそうですね。

こちら 
http://www.mylohas.net/blog/archives/2006/03/weekend02-2.php

ご紹介します。
トラックバックのテスト
 今日は近くのギャラリーさんに自分の器を持っていってきました。たくさんあるうつわのなかに自分の器をならべながら、しっかりと、自分の作ったものと比べてきました。『骨董みたいですね』というご主人の言葉を聞きながら、書で言えばぼくの器は『臨書』なのかなぁ


わたしの意見。 テストです。
自分探し



朝10時、目を覚ます。お昼に飯を喰い、下北沢のいつものパチンコ屋に入る。これがぼくの日課だった。退廃的といえば余りにも・・そんな二十代であった。一度台が決まると打ち止めまで座ったままだ。つまり・・夜の10時くらいまで、飯も食わず。強かったのである。ぼくは一時、これで飯を喰うつもりだった。が、数ヶ月もこんな生活がつづくと、自己嫌悪が起こってくる。『俺はなんとダメな人間なんだろう』『こんな事をするために生きてきたのか』自問自答が続いた。

 

沖縄行きはそんなことが契機となった。自分探しが始まった。そして、焼き物と言う職業を一生の仕事とすることとなる。出会いがあったのだ。

 

娘は今、デザイン学校に通っている。ここまではぼくとよく似ている。来年の卒業に向けて就職探しも始まっているようだが、フト、こんな事を言い始めた。『わたしも、自分探しをしてみようと思う』
自立



娘が子供の頃、富山にある大学病院に検査入院したことがある。和漢診療科、全国でもここにしかない漢方を扱った医科。子供の病名は繰り返される好酸球性肺炎、難病であった。

 

子供を病院に預け家に帰ってくると、『友だちができたよ♪』という電話。娘の得意技は友だちをつくること。だれとでも、すぐに友だちになれた。その病室は小児科、枕元には千羽鶴が置かれ、決まってある種の薬の副作用と思われるパンパンの顔をしていた。たとえ退院できたとしても、一生その病と付き合わなければいけない人生。
 

娘は数日の検査の結果、特別な治療は認められないと結論がでた。そこで、もう帰ってもいい筈だったのだが・・・ゴネタ、のである。『あのう、娘さんが・・帰りたくないと言っているのですが、どうすればよろしいでしょうか』と電話口で、その若い医師は狼狽えた。もちろん、すぐにお泊りは終わった。

 

娘にとっての入院は、それは親から離れた自由を謳歌するかのように、今も心の片隅に残っているだろう。その娘も一ヵ月後、二十歳の誕生日を迎える。この家に帰ってくる気配すらない。娘はあのとき、『トリカブト』を処方される予定だった。もちろん、娘は知らない。毒には毒と言う考え方であった。電話してくれる『医師』は、もういない。